祖父は阪東妻三郎、父は田村亮という名門一家に生まれた田村幸士さん。しかし、学生時代は大きすぎる「田村」の名を重荷に感じていたと言います。そんな田村さんが俳優の道を選び、「田村」の重責を背負うに至るまでのストーリーには、目まぐるしく変化する時代の中で文化を引き継いでいくためのヒントが詰まっていました。田村さんのこれまでのあゆみや役者という職業への思い、今後の展望について、中村CEOが伺いました。



役者一家に生まれるも一般企業に就職

中村
田村さんは、祖父は阪東妻三郎さん、父は田村亮さん、伯父は田村高廣さん、田村正和さんという役者一家のお生まれです。しかし、ストレートに芸能界に入ったのではなく、紆余曲折を経た後に、俳優という職業を選ばれました。まずはこれまでのあゆみを教えていただけますか。



田村
僕は小さい頃から役者一家の環境で育ちました。父も伯父も祖父もみんな役者という家系です。ただ、若い頃から「親と同じレールの上を歩くのはどうしても嫌だ」という気持ちが強く、役者になることには全く興味がありませんでした。それで、大学卒業のタイミングでは一般企業に就職する道を選びました。

中村
あえて違う道を選ぶというのは、なかなか勇気がいる決断だったのではないでしょうか。

田村
役者を目指さなかった理由の一つに、周囲の目がありました。たとえば「田村亮の子ども」や「田村正和の甥」という肩書きで紹介されることが当たり前で、そうした前置きがないと自分の存在が成り立たないように感じることがありました。そうした体験が、「家族とは違う自分の道を進みたい」という強い気持ちを後押ししたのです。

中村
確かに、常に家族の名前がついて回ると、自分自身を見てもらえていないと感じますよね。それで就職先はどのような会社を選ばれたのですか。

田村
2000年に大学を卒業した当時、インターネット業界が盛り上がり始めた時期だったので、IT系のベンチャー企業に就職しました。ただ、まだ回線速度が遅かったり、ウェブ広告の価値が十分に認識されていなかったりして事業が軌道に乗らず、会社の経営も不安定になっていきました。

中村
時代を先取りしすぎた感じですね。その後、スキー競技のサポートをされることになるわけですが、きっかけは何だったんですか?

田村
当時、同級生でアルペンスキーの選手だった皆川賢太郎くんから声をかけられました。彼はオリンピックを目指しており、「マネジメント会社と契約するから、一緒にやらないか」と誘ってくれたのです。僕もスキーが好きだったので、「自分は裏方としてサポートする」という形で彼に協力することにしました。

中村
そのお話、とても興味深いです。スキーをただのレジャーではなく、文化として根付かせようと取り組まれていたと聞きました。

田村
そうなんです。スキーは景気に左右されやすいレジャーの一面が強いので、スポーツ文化として根付かせるにはどうしたらいいかを皆川くんと話し合いながら進めていました。その後、スポーツマネジメント会社で働く中で、選手を支える楽しさや、スポーツ文化をどう盛り上げるかについて深く考えるようになりました。たとえばアメリカでは、そもそもスポーツの成り立ちがエンターテインメントなので、スポーツマネジメントと非常に相性が良いのですが、日本の場合、スポーツイコール体育、つまり教育という意識が根強い。そのため、教育でお金を稼ぐことへの抵抗感があり、スポーツマネジメントの大きな障壁になっています。ですので、日本のスポーツはメディア主導で盛り上げられることが多く、選手自身の価値が十分に引き出されない状況があることに課題を感じていました。それなら、自分がマスコミ側に回ることで、何か変えられるのではないかと思い、テレビ番組制作の道を選びました。

テレビマンになって初めて気づいた田村家の重み

中村
スポーツからテレビ番組制作の世界に進むというのも大きな転換ですね。現場での経験はいかがでしたか。

田村
スポーツ番組を作りたいと思って入社したのですが、まずは現場を経験するために、映画の情報バラエティ番組のアシスタントディレクター(AD)をやることになりました。ある日現場での休憩中に、たまたま伯父の田村高廣に会ったんです。僕がADをしていることを話すと、「撮影を見てみるか?」と誘ってくれ、スタジオに連れて行ってもらいました。そのとき、伯父の生のお芝居を初めて目にしたのですが、本当に衝撃的でした。

中村
それは貴重な体験ですね。映像で見るのと生で見るのでは、やはり全然違いましたか。

田村
全然違いました。それまで僕にとっての田村高廣さんは、優しくて穏やかな「おじさん」でした。しかし、演技をしているときの彼の目は、全く別物でした。澄みきっていて、力強く、何かを超越したような輝きを放っていて。「これが役者という仕事なのか」と、その場で心を奪われたのを覚えています。映像では何度も見ていたのに、生で見る演技の迫力と美しさは全く別物でした。

中村
なるほど。映像では伝わりきらない、生の迫力ってありますよね。特に、田村さんのように身近に感じていた方が突然別世界の存在に見えると、そのギャップがより強烈なインパクトになるのかもしれませんね。その場で役者という仕事の重みや凄みを初めて体感されたんですね。

田村
まさにそうです。さらにその後、自分が担当する映画情報番組で、祖父・阪東妻三郎の映画『雄呂血』を特集する機会がありました。その編集作業を一人で任され、映像をじっくりと観たのですが、これもまた大きな出来事でした。

中村
阪東妻三郎さんといえば、時代劇の名優ですよね。その作品を担当するなんて、すごい巡り合わせですね。どのようなところが特に心に響いたんですか。

田村
僕は祖父に会ったことがなく、動く姿を見たのも初めてで。その立ち回りの見事さ、10分以上続くチャンバラの凄さに圧倒されると同時に、まるで祖父に会えたような気持ちになりました。ただかっこいいだけじゃなくて、まるで彼の生き様そのものが映し出されているようで。そのとき、「ああ、僕はこんな人の血を引いているんだ」と、初めて実感しました。編集作業中、不意に涙がこぼれて止まらなくなったんです。

中村
本当に感慨深い瞬間ですね。写真や話だけでは知り得なかった、ご自身のルーツの深さを映像を通して感じられたんですね。

田村
祖父が持っていた役者としての圧倒的な存在感や魂を感じ取った瞬間でした。この2つの体験を通して、「田村家の役者」というものが単なる家族の肩書ではなく、受け継ぐべき大切な伝統なんだと深く理解しました。それまで自分にとって「田村」という苗字はコンプレックスだったんですが、僕の代で、役者田村家を絶やしてはいけないと、使命感にも似た思いが芽生えました。そして、田村家を存続させるのは自分しかいない、挑戦してみたいと強く思い、役者の道に進みました。

中村
まさに運命に導かれたようなお話ですね。役者としての血脈や魂を直に感じた田村さんだからこそ、その思いが自然と形になっていったのかもしれませんね。役者修行はやはり大変でしたか。

田村
それはもう大変でした。まず養成所に入ったのですが、できないことばかりで落ち込む毎日でした。デビュー1年目のとき、父の縁でドラマに出演させていただいたのですが、緊張のあまり声が全然出なくて。恥ずかしくて仕方なかったのですが、田村家の名前に泥を塗ってはいけないと変に気負って虚勢を張ってしまって、悪循環に陥ることもありました。

自分の引き出しを増やし、役を柔軟に捉える

中村
何か悪循環から抜け出す転換点があったのですか。

田村
ある講師の方に言われた「かっこいい人間というのはかっこ悪いところを見せられる人だ」という言葉が響きました。自分のダサいところやかっこ悪いところも受け入れて、笑って抱きしめてあげることが、いろんな役や作品を受け止めて、芝居に昇華することにつながるのだと気づいたことは、転換点だったかもしれないです。

中村
自分をさらけ出すことが演技の幅を広げるのですね。役者さんは役になりきることが求められる一方で、役者さんの個性が反映されてこそ、魅力的な演技になると思います。そのあたりの「自分」という軸のバランスはどう取られていますか。

田村
役を演じるとき、自分の個性は重要ですが、それに固執すると役の本質を見失うこともあります。たとえば、自分はこれを見て悲しいと思ったけれど、うれしいと思う人もいるかもしれない。そういう想像力や、自分とは違う解釈も受け入れる柔軟性が必要です。そのため、監督の意向に応じて柔軟にアプローチを変えられる引き出しを持つことが鍵です。自分の提案がダメだったときに「じゃあ別のパターンで」と切り替えられる準備が求められますね。

中村
なるほど。監督の意向が優先される現場では、役者さんにとって提案力や柔軟性が重要になるのですね。そうした監督とのやりとりで意見がぶつかることもあるのではないですか。

田村
しょっちゅうあります(笑)。でも、それは「良いものを作りたい」という共通の思いがあるからこそ起きること。意見をぶつけ合いながら、一つのものを作り上げるのは大変ですが、やりがいがありますね。

中村
相手が自分より上でも下でもなく、対等な関係で意見交換をすることはとても大切ですね。自分の意見をしっかり主張しつつ、相手の意見にも耳を傾けることが重要で、それが基本的なコミュニケーションの姿勢だと思います。意見が違うからこそ新しいアイデアが生まれ、信頼関係も深まっていくのです。役者の仕事も、演技だけではなく人と深く交流する場面が多く、それこそが役者という仕事の醍醐味なのかもしれませんね。

俳優業とヘルスケアの接点

中村
俳優業とヘルスケアには、一見すると距離があるように思いますが、実は深い関係がある気がします。病気を治すことや予防することはもちろん重要ですが、それだけでなく、その人らしい生き方や気持ちの持ち方も大事だと考えています。ヘルスケアについて、田村さんはどんな考えをお持ちですか?

田村
おっしゃる通り、ヘルスというのは心と体の両方に関わるものだと思います。その点でお芝居や舞台が果たせる役割は大きいと感じています。たとえば、舞台は観る人に感情を委ねてもらう場所でもありますよね。笑ったり泣いたりと、感情を素直に解放する時間を提供できるのは、とても貴重だと思います。

中村
舞台は観客が現実から離れて感情に没頭できる特別な空間ですよね。それが心の健康に影響を与えるというのは興味深いですね。

田村
そうなんです。最近特に感じるのは、若い世代に感情を解放する経験が不足していることです。たとえば、僕は学習院大学のスキー部の監督もしているのですが、今の部員たちは高校時代をコロナ禍で過ごしていて、大声を出す機会がほとんどなかったんです。そのせいで、大声の出し方自体がわからなくなっている子たちがいます。

中村
それは驚きです。感情を声に出すことさえ難しくなっているんですね。

田村
ええ。そういう背景もあって、舞台が持つ力は非常に大きいと感じます。舞台では、観客はスマートフォンを手放して、目の前の世界に没頭します。そこで笑ったり泣いたりする時間は、現代社会ではなかなか得られないものです。それが心の健康、ひいてはヘルスケアにも良い影響を与えるのではないかと思います。

中村
舞台が感情を解放する場になり、それが人々の健康にもつながるなんて素晴らしいですね。田村さんのお話を聞いて、舞台を見ること自体が一種のヘルスケアに思えてきました。

時代劇を引き継いでいくために

中村
田村さんは時代劇を次の世代に引き継いでいくための活動もされているそうですね。

田村
京都太秦は今でこそ時代劇の撮影所がたくさんあって『日本のハリウッド』と呼ばれたりもしますが、元は何もない土地でした。そこに初めて撮影所を作ったのが、僕の祖父である阪東妻三郎です。来たる2026年、太秦の撮影所開所100周年の節目を迎えます。100周年に向けて、時代劇をもっと知ってもらうために、様々な取り組みを行っています。その一つが、『太秦江戸酒場』です。太秦江戸酒場とは、映画村のスタッフが総出で作り上げた夜の江戸の町で、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の中、お酒や食事を楽しめるイベントです。僕はそのイベントで、祖父の映画の活弁上演をさせてもらいました。

中村
名前からしてワクワクするイベントですね。活弁上映について教えてください。現代の人にはあまり馴染みがないかも。

田村
活弁上映というのは、昔は映画に音がなかったので、映像をスクリーンに投影して、弁士が説明やセリフを言うというスタイルの上映方法で、今回は祖父が出演した『喧嘩安兵衛』のプロデュースをさせていただきました。活弁上映はスクリーンの迫力と、弁士の生の声、生演奏の臨場感を楽しむことができます。若い人たちにも活弁上映の魅力をもっと伝えたいと思っています。

中村
映像と生の声、さらには生演奏、それは新鮮ですね。若い人たちも興味を持ちそうです。そうしたイベントや時代劇を通じて文化を引き継いでいくのは、非常に大事なことですね。

田村
おっしゃる通り、時代劇には昔の芝居や所作、言葉遣いを後世に残す役割があります。だからこそ、役者はしっかりと勉強することが必要です。現代風にアレンジされた作品も時代劇を引き継ぐ上で重要ですが、父もよく「型破りは型を知っているからこそ」と言っており、すべては型があってこそ成り立ちます。
一方で、役者だけでなく制作チームにも時代劇に詳しい人が減っているのが現状です。次世代に伝えるためには、制作に関わる全員が学ぶ場を作ることが必要だと思っています。

中村
文化を次に繋げていくことは、簡単ではありませんが本当に大切なことですね。田村さんの取り組みが、時代劇の新しい未来を開くきっかけになりそうです。

自分の価値は、人のための行動で育まれる

中村
最後に、田村さんのIKIGAIは何ですか。

田村
僕のIKIGAIは「人のために行動すること」です。これまで、自分の価値を探しながら生きてきましたが、あまり自分の理想に囚われず、人のために行動する大切さを学びました。
たとえば、友達が何かを頼んでくれるのは、僕を信頼し価値があると認めてくれているからです。しかし時に、自分では無理だと思っていたことを頼まれるかもしれません。人のために行動することによって相手も幸せになれますし、自分自身の価値も広がるのかなと思っています。

中村
田村さんの素晴らしいところは、自分の考えをしっかりと持ちながら、それを実行に移していく力があることです。俳優という道を歩みながら、次世代に文化を伝えるという大きな使命感を持ち、その実現に向けて着実に行動されている。年齢的にはまだお若いのに、これほど多方面に視野を広げて動かれている姿勢に本当に感銘を受けました。今日は貴重なお話をありがとうございました。





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