シミックグループの企業カルチャー「W&3C」の4つのワードからテーマをひとつ選んでいただき、そのテーマについてお話しいただくコーナーです。今回は、織物業界を牽引してきた名跡「龍村平藏」を2024年9月に襲名された五代 龍村平藏さんに、自身の「Challenge」について、その挑戦の軌跡と未来への展望を伺いました

織物で世界を驚かせた初代の精神を受け継いで

龍村美術織物は、緻密でありながら大胆さを兼ね備えた「織の美」を追求し、織物の世界の新たな可能性を切り開いてきました。その礎を築いた初代 龍村平藏は、法隆寺、正倉院に伝わる古代裂(古い織物の断片)など伝統的な織物の研究に尽力するとともに、前例のない画期的な織物づくりにも取り組み、海外でも高く評価されました。当社は初代の精神を受け継ぎ、織物の新たな可能性を追求し続けてきました。

思いも寄らなかった「継承」の道

私自身、織物の世界で生きることは幼い頃、想像もしていませんでした。父・四代龍村平藏が製造業のエンジニアとして働いていたこともあり、幼少期は家業との接点がほとんどありませんでした。小学3年生の時に父が家業に戻ったことで京都へ移住したものの、その後も大学進学で上京し、卒業後は新聞社に約10年勤めるという、まったく別の道を歩みました。伝統工芸とは180度異なる業界を経験したのは、今振り返れば良い経験です。 しかし、父が家業を継いだ後、ある日「家に戻らないか」と声をかけられました。それまで父が私に頼みごとをすることなどなかったため、その言葉には大きな覚悟を感じました。私も家業に飛び込む決意を固めた瞬間でした。

技術と経営の両輪で学んだこと

家業に入った私はまず技術部に配属され、織物の設計を学びました。当時の私はまったくの素人。右も左も分からず、基礎から始める必要がありましたが、それが私の原点となっています。この世界にいる限り、どんな仕事をするにしても、織物のことを知らないと話になりませんので、父としては、あえて最初に技術部に入れたのだと思います。その後、営業企画や経営の仕事に携わる中で、織物の奥深さやビジネスの可能性を改めて感じるようになりました。

歴史に学び、未来へ挑む

バブル期以降、和装のマーケットは縮小を続けています。和装だけでは成長が望めませんので、現在は、雑貨などのインターネット通販、そして海外での展開など新たな挑戦に取り組んでいます。実は、歴代龍村平藏の中で最も海外で活躍していたのは初代でした。昭和初期、国策として絹織物の輸出が進められていたこともあり、博覧会への出展など、海外でも精力的に活動していました。この名跡『龍村平藏』は織り手でも、絵描きでもない、いわばプロデューサーとしての役割が特徴です。初代がそうであったように、私も時代の変化を読み取り、新しい価値を創造するプロデューサーとしての役割を果たしたいと考えています。初代は大阪の両替商の子どもとして生まれ、裕福な幼少時代を過ごしましたが、家業が傾いて、親戚の呉服屋に修業に出ました。それをきっかけに、呉服をただ売るだけではなくて、自分で織物を作りたいと考えるようになり、京都西陣で織元として創業しました。初代は、時代を読む目も一流でした。西陣織にジャカード機による機械化の大きな波が押し寄せるようになると、織りの技術だけでなく、図案もさらに重要になると考え、若い画家たちを多数起用しました。その中には、有名な日本画家、堂本印象も含まれています。各代の龍村平藏は初代を超えようと努力してきましたが、その壁は高いものです。

「和の解放」で目指す新しい未来

私が掲げるスローガンは「和の躍動 和の解放」です。初代も達しえなかった領域に挑みたいと考えています。当社の祖業は和装で、古代裂の復元という唯一無二の強みもありますが、その枠にとどまる必要はありません。古代裂の復元や和装の分野で培ってきた美的感覚や美意識、織りの技術を新たな分野で解放していくことが、歴代龍村平藏の思いを引き継ぎ、発展させることにつながると信じています。例えば、最近では、さまざまなアーティストとのコラボなども積極的に行っています。こうした新しい取り組みを通じて、龍村美術織物を「進化する伝統」として世界に届けることが、名跡を受け継いだ私の使命だと考えています。


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