私は現在、シミックグループの中村和男CEOが館長を務める中村キース・ヘリング美術館でシニアディレクターという 役を任されています。中村キース・ヘリング美術館で働き始めたのは2014 年のこと。ちょうど日本に引っ越してきた年でした。それまでは幼少期よりアメリカのニューヨークで暮らしていました。2010 年からはテレビ番組「セックス・アンド・ザ・シティ」や映画「プラダを着た悪魔」で有名なコスチュームデザイナー、パトリシア・フィールドの下で働き、クリエイティブ・ディレクターをしていました。

フィールドは80 年代、キース・ヘリングと交友関係があり、没後20 年、ちょうど私が入社した2010 年に彼の作品を起用した服のコレクションを制作し、その時にクライアントとして中村会長と美術館顧問の梁瀬薫さんと出会いました。今年2020年はそれからちょうど10年経ち、ヘリングが亡くなってから30年です。まさかあの時の「Mr. Nakamura」の下で働くとは思ってもいませんでしたが、一緒にお仕事をさせてもらって早6年が経とうとしています。

私が日本に住むきっかけとなったのは母が癌になってしまったことでした。そのニュースは、キャリアが波に乗っていた時 に現れました。私がデザインしたアイテムが大ヒットし、世界中で売れていて、さらにフィールドと一緒に、大手スポーツブランドとの大規模なコラボレーションを進めている真っ最中でした。

コラボレーションのミーティングでボストンから帰ってきた夜、母の親友から電話がありました。「ヒラクくん、お母さんもうダメかも。」ただただ涙が止まらず、子どものようにヒックヒックと電話越しに泣き崩れました。その日から2日後、母の生死を見届けるため、10 年ぶりに成田空港に立っていました。そ

数日後、母はこの世を去りました。私にはそこからの記憶はほとんどなく、お葬式があり、気づいたら何ヶ月後にはMr. Nakamuraとテーブル越しに座っており、「うちで働けば?」というオファーを頂いていました。パトリシア・フィールドの提案で、小淵沢に遊びに行った時のことでした。

私には二つの選択がありました。ニューヨークのファッション業界へ戻ってまた競争を続けるか、都会の喧騒や競争から離れてアートを中心に仕事をするか。子どもの頃から憧れていたファッション業界ではすでに夢がかなっていました。10 代の頃から崇拝していたパトリシア・フィールドの下で働き、業界ではそれなりに足跡を残し、自分がデザインしたものがVOGUE誌の表紙にもなり、もうこの世界で他に望むものはあまりないなと思っていました。

逆に人々が田舎からわざわざ引っ越してくるニューヨークを、子どもの頃から出たこともなく、外の世界を知らない自分。目の前にいるMr.Nakamura が正にその時、外の世界で生きてみないかとチャンスを与えてくれていたのです。

日本を選んで6年、母親も亡くなり、家族の様な友達からも離れ、初めて孤独を生きてみました。悲しみを感じないようにどこかで感情を麻痺させていましたが、実は最近やっと毒りんごを吐き出して、ハッと起き上がった白雪姫の様に目が覚めた感覚になってきました。ほぼ無意識ではありましたが、ここまで、あのままニューヨークに住んでいたら経験することもなかった出来事も沢山ありました。自分の心地いい環境から一歩踏み出し、新しいことに挑戦するということは大切なのだなと、身を以て再確認できた6年間を背に、残りの2020年、目を覚まして前進をしようと思っています。



Hiraku's Viewpoint

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