日本で生活していると「英語できません」という人によく遭遇します。しかし、最近では小学生から英語の授業があるそ うですし、街中ではたくさんの英語があふれています。ソーシャルメディアや出会い系アプリに「趣味は英会話」と書く人もいます。言語が趣味になってしまうほどの英語に対する興味は、他の国ではみられません。それほど英語が好きで、英語を学ぶ材料に囲まれているのに、なぜ話せないのでしょうか?これは英語を話す「能力」ではなく、使う「勇気」がない人が多いせいではないかと思います。

中村キース・ヘリング美術館には外国人の来館者も訪れます。「英語できません」というスタッフが外国人客を目の前にしたとき、私は気づかぬふりをして放っておくようにしています。すると勇気を振り絞り、自分の知っている英語を使ってコミュニケーションを取るのです。ネーティブの発音ではないし、語彙も少ないのですが、英語を話しています。つまり「能力」がないわけではないのです。そんな彼らを観察していると、とても恥ずかしそうに英語を話しています。なぜそんなに恥じらっているのか、とても不思議でした。

日本人の前で英語を話すと、「かっこいい!」と言われることがあります。「かっこよさ」の裏側には「かっこつけ」が存在し、それは「自信」の表れであり、さらにその裏側には「自意識過剰」も存在します。日本人は自信に満ちあふれた人たちのことを「かっこ悪い」と笑う傾向にあるようです。おそらく、自分があの「かっこいい英語」を人前で話すと「かっこつけ」だと思われ笑われてしまうという心理なのではないでしょうか。「かっこつけ」の自分を他人に見せてしまうことを恥じらってしまい、「話す勇気」が奪われているのです。他人が何とも思ってもいないことを先読みしてアクションを起こせない人、皆さんの周りにもいますよね。

学校教育や求人情報などを見ていると、英語の理解能力がどれだけ要求されているかが伝わってきます。そんな状況の中、特に仕事という競争を基盤とするシステム上で( モラルや道徳の範囲内で)守らなければいけないのは自分であり、他人が自分のことをどう思っているかなどを気にしてじっとしていても、残念ながら順番は回ってきません。私たちバイリンガルやマルチリンガルはさまざまななまりや方言、レベルの英語を話します。しかし私たちにとって、英語とはただの「ツール」なのです。笑われることを怖がっていると、私たちのようなインターナショナルたちにどんどん順番が先に回ってきます。「私たちの権利を奪ってくれ」と言っているわけではありません。すでにツールを持っているのだからフェアゲームで共存しましょうと言いたいのです。

接客やクライアント対応の際に必要なのは、相手のニーズに応える、知らせるべき情報を伝えることです。もちろん流ちょうな英語は情報伝達の自由度を上げますが、「英語を話す」ということは必ずしもなまりをなくし、正しい文法でネーティブに話すということではないのです。言語を使う目的はコミュニケーションです。コミュニケーションとは意思の疎通であり、自分の意思さえ伝えることができれば、どんな癖のある英語でも目的は達成できます。

先ほど紹介したスタッフの中には、海外からのVIP 客に英語で館内を案内したり、海外で作品の貸し出しや展示の準備を担当したりするようになった者もいます。そのスタッフは「英語ができない」という自分で創り上げた視点から離れ、言語をツールとして使い始め、使いながら語彙を増やしていきました。世の中には、彼らのように英語を話せる日本人たちがたくさん隠れています。あとはそれがツールであるという視点で見て、使うか否かなのではないでしょうか。



Hiraku's Viewpoint

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