2021年夏に開催予定の東京パラリンピックは、障がい者スポーツの認知を高めるだけではなく、多様性を受容する社会のあり方についても考える機会になることが期待されています。互いの違いを認め合い、尊重し、気持ちよく暮らせる社会にするために何が必要でしょうか。今回は、パワーリフティング55kg級で東京パラリンピック出場を目指す山本恵理さんにお話をお伺いしました。



パラスポーツ推進活動と並行して、選手としてパラリンピックを目指す

私は生まれつき二分脊椎症により足が不自由で、幼い頃から車椅子生活でした。母は水が苦手だった私に、水への恐怖を克服させようと水泳に連れて行き、そこでパラスポーツと出会いました。最初はパラリンピックの存在も知らなかったのですが、水泳教室でコーチに声をかけられ、パラリンピックを目指すことになりました。しかし、高校時代の怪我のため、水泳選手としてのパラリンピック出場は、断念せざるを得ませんでした。

目標を失った後、誰かの役に立ちたいと考え、大学では心理学を専攻しました。そんなとき、再び水泳のコーチに「今度は選手を支える側としてパラリンピックを目指さないか」と声をかけていただき、2008 年の北京大会にメンタルトレーナーとして帯同しました。

支える側に立ち、初めて、選手のことを考えてくれている人がこんなにいたことを知りました。私は一人で泳いでいたわけではなかった、もっと周りに支えられていることに感謝して進めばよかったんだと気づけたのです。

北京大会で英語のコミュニケーションの重要性に気づき、英語を学ぶために2010 年にカナダに留学しました。そのおかげで2012年のロンドン大会では水泳の事前合宿の通訳などの仕事をさせていただきました。2015 年に帰国し、日本財団パラリンピックサポートセンター(パラサポ)に就職しました。パワーリフティングに出会ったのはその翌年です。

パラサポ職員と選手の二足のわらじをはき、次世代育成というカテゴリーに入れていただいてパラリンピック出場を目指しています。競技を始めてから、まだ5年程度ですが、パワーリフティングは年齢を重ねるほど成績が伸びる可能性がある、選手寿命が長い競技ですので、私の伸び代もまだ十分あるはずと自負しています。

カナダで感じた人の温かみ

意外に感じられるかもしれませんが、日本のバリアフリーの設備は諸外国と比べ整っています。海外ではエレベーターやエスカレーターが壊れていることも多く、点字ブロックも日本のようには設置されていません。しかし、海外では声を かけてくれる人が必ずいました。エレベーターがなくても、周りの人が階段の昇り降りを一緒に手伝ってくれたりすると本当に嬉しく、社会の一員として生活している実感がありました。

帰国後、日本では声をかけてくれる人が少なく、まるで見えていないもののように扱われることが多いと感じ、「私はこの社会の一員なんだろうか」と思ってしまうこともありました。そのため、しばらくはカナダに戻りたいという気持ちでいたのですが、次第に、日本から逃げるのではなく、私たちが、多くの方々に味方になっていただきながら日本を変えていかなければならないと思うようになりました。

心のバリアを崩す

日本の社会を変えるためには、まず一人ひとりの心のバリアを取り払う必要があると思っています。断られるのが嫌だから声をかけるのを躊躇する人も多いようです。

実際、お手伝いをお断りすると気まずそうな顔をされる方も多いのですが、必ずしも何かしていただかなくてもよいのです。声かけは「自分は心配していますよ」という意思表示と考えていただき、気軽に声をかけ合う習慣が浸透すれば、もう一歩先に進むのではないでしょうか。

最近では声をかけてくださる方も増えてきたと感じています。心のバリアが高かった方も、一度どう声がけすればよいのかを理解されると面白いくらい変わります。特に大人ほど変わるので、私は個人的にバリアを突き崩すことにやりがいを覚えています。

障がいのある子どもたちも笑顔になれる社会に

私が8、9歳の頃、酔った祖父が母に「恵理がこうやって生まれたのはあなたのせいだ」と叱責したことがありました。当 時は誰もがそのような考え方で、特に祖父が悪いわけではありません。
でもそのとき、「こんなことを言わせるような世の中にしたらダメだ、絶対に見返してやる」と強く思ったことを覚えています。
残念ながら亡くなった祖父に見せることはできませんが、パラサポの活動、そして、みんなの記憶に残る選手になることで、障がいがある子どもたちが笑顔になれる社会に変えていきたいです。
パラリンピックを通じて、みなさんにも自分には何ができるのだろうと考えてもらうきっかけになればと願っています。みんなで考えることによって社会は変わると信じています。







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