新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより経済や人の動きは停滞し、国際的な交流が以前よりも難しい社会が到来しています。人とのつながりを持ちにくくなっている今、どのような考え方や行動が求められているのでしょうか。
こうした状況をものともせず、個人同士のつながりを生かし、スマートフォン一つでオリジナリティーあふれるアート作品や映像を創造するアーティストとして世界を舞台に躍進を続ける赤松裕介さんに、中村CEOがお話を伺いました。



中村
初めてお会いしたとき、ヨーロッパのアートシーンにこんなにユニークな日本人がいらしたのかと衝撃を受けました。世界各地を巡り自分が見たことや感じたことを作品にしていくスタイルはまるで現代の松尾芭蕉※1。しかし、赤松さんは俳句ではなく現代ツールを用いて作品を生み出している。そんな赤松さんを形づくった生い立ちにとても興味がわきました。

赤松
大阪生まれ大阪育ちです。母親がとても自由な人、いわゆる恋多き女性です。幼稚園のころには「19時までには帰る」と言い残し、2年間、家に帰ってこなかったこともありました(笑)。

中村
2年ですか。幼少期に母親と過ごせず寂しかった記憶がトラウマとなり、その後の人生に影響を与えてしまいそうなものですが。赤松さんは当時のことを明るくお話しになるところがすごいですね。

赤松
そんな中、久しぶりに帰ってきた母に「子役をやらないか」と突然言われて、6・7歳から子役を始めました。

Corn in the darkCorn in the dark

中村
思いがけない展開ですね。

赤松
子役としての出演料は母のお茶代に消えていきましたけど(笑)。子どもだったので、共演者や関係者の方たちからかわいがっていただき、「こんなに優しくしてくれるなら家にいるよりいいな」と思っていました。中学では学校の友達と漫才を始め、卒業するころには、お笑いを続けていくのも楽しいだろうなと思っていました。そのときの相棒は今、東京工業大学で物理の教授をやっていますが。

中村
それはすごいですね。

赤松
とはいえ、高校、大学には進むと思っていたんですが、母が高校の入学金を持ってまた家出してしまって(笑)。途方にくれていたら東京の芸能事務所の方に、お金を貸すから大阪で高校に進学するか、上京して芸能界ででっち奉公するか選べと言われました。このまま高校に行っても面白いのかな?という気持ちもあったのですが、私としては育ててもらっている祖父母に頼っているのもよくないしと思い、1985年に上京することになりました。

※1 松尾芭蕉(1644~1694)『おくのほそ道』で知られる江戸時代前期の俳人。俳諧という俳句の基になったものを発展させ、芸術として俳句を完成させた。

20代で得た経験値を武器に、 映画の道へ

TANGOTANGO

中村
東京ではどんなドラマがありましたか。

赤松
中山秀征さんが当時やっていたABブラザーズというコンビのお宅に居候しながら、お笑いの仕事をいろいろやりました。お笑い芸人としての仕事だけでなく裏方もやりましたし、やがて放送局のディレクターや放送作家、小説の執筆、イベントの演出などもやるようになりました。20代前半のバンドブームのころは、大槻ケンヂさんやUNICORNやGO-BANG'S とお仕事をさせていただきました。演劇が盛んな時代でしたので、つかこうへいさん、野田秀樹さん、鴻上尚史さんともお仕事をさせていただきました。今ではレジェンドとされているそういった方々はとにかく個性的で、多くのことを学びました。20代で積んだ経験値は同年代よりもはるかに高い自信があります。しかしあるとき、芸能界の先輩から「海外で何か1人で成し遂げてこい」と言われ、今まで経験のない分野である「映画」に挑戦してみようと考えたんです。

中村
そして、海外に飛び出していくわけですね。

赤松
海外で挑戦するからには「外国へ来て1人で映画を作った日本人があの赤松だ」と言われるようになりたいと思っていました。ある人に「相手の国の言語を覚えたら面白くない。君の独自のキャラクターは海外でも武器になる」と言われ、自分の個性を信じて突き進みました。

中村
これだけ海外で活躍されているのに、あまり英語を話されないというのも驚きです。海外で生き抜くためのコミュニケーションの肝は何ですか。

赤松
伝わるまで言うことです。相手が「わかった、わかった」となるまで、それこそ身ぶり手ぶりでコミュニケーションをとる。きちんと伝えるには、その場で一所懸命やるしかない。そのうち近所の理髪店やスーパーのレジのおばちゃん、レストランのお兄ちゃんとかが「ああ、あいつね」と覚えてくれて、みんな優しくしてくれるようになりました。伝える力は、伝えたい気持ちから出てくるものだと思います。

中村
僕は恩師の故 五島雄一郎※2先生から教わった「雑草のごとくたくましく生きる」を座右の銘とし、あきらめなければチャンスは舞い込むということを信条にして生きてきました。やはり情熱、そして生きるぞという覚悟が必要ですね。きっと赤松さんの熱意が伝わり、相手も心を開いてくれたのでしょう。信頼関係を築くための秘訣は、語学力よりもまずは伝えたいという気持ちと粘り強さのように思います。

アートの持つすごさを体験

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赤松
日本を出た後、ベトナム、台湾、マレーシア、シンガポール、香港、韓国と、アジアを放浪しました。iPhoneで映画を撮り始めたのは、シンガポールにいたころです。スティーブ・ジョブズの「これは箱だ。この中に何を入れるかは人によって異なるべきだ」という言葉に共感して、僕は1人で生きているけれど、いろんな人と結びつきながら、いろいろなものを見て吸収している。それをこの箱(iPhone)に入れてみようと思ったんです。ところがiPhoneで作った映画を台湾の映画監督に見せたら「これはエンターテインメントじゃない、アートだ」と言われて。エンターテインメントしか知らないのにどうしたらよいものかと困惑していたら、フランスに行くことを勧められ、翌週にはフランスにいました。

中村
さすが、フットワークが軽いですね。いい意味で常に自分探しをしていて、常により良い場所を求めて行動する。並の人にはない行動力と好奇心にあふれていますね。そして、人生に対して何かふっきれているように感じます。

赤松
パリでは映画監督のエリック・ロメールさんの制作会社を訪ね、作品を観てもらいました。「才能ないよ」と言われたら日本に帰るつもりで。ところが「あなたはアートの人。パリでこそ生きる」と言われ、これは雲行きがあやしくなったぞと(笑)。 その会社のプロデューサー(彼女はエリックさんの最後のアシスタントでした)から「あなたが持つエネルギーや色は他の人と違うので、このままやりなさい。ただしアウトプットは映画ではなくて他のものを。このままいろんな人と関わりながら何かを作り続けなさい」とアドバイスされました。 それからは映像の制作を続けながら、その間に腕が鈍らないようにとiPhoneで写真を撮っていたのですが、それを見たジャーナリストが「それを展示しよう」と発案し、最初の作品展へとつながっていくのです。それがだいたい2年半前になりますね。

中村
本格的にスタートしてまだたった2年半!?たった2年でアートのトップレベルにのし上がってこられた。今までやってきた積み重ねがあるからですね。知らないことに興味を持ち、積極的に知ろうとする。そして周りの人を巻き込んで、どんどん吸収してしまう。赤松さんの人間力の高さはここからきているのですね。

※2 五島雄一郎(1922~2003)医学博士。東海大学名誉教授・医学部附属病院名誉病院長

明日何が起こるかわからない、 それが人生の楽しさ

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中村
その後、どのように人脈が広がっていくわけですか。

赤松
わらしべ長者みたいに、最初に持っていたものがどんどん変わっていく感じです。 あるとき、パン屋の社長さんに「この写真に含まれているロジックの意味を教えてほしい」と聞かれ、自分なりに考えて答えました。壁や土、道、人のすれ違いやカフェを俯瞰で見た風景の中に、人間の感情、歴史、秘めた思いなど、何か吹き出ているものを撮っているだけですよと。そうしたら、その人がカンヌ映画祭のプロデューサーを紹介してくれて、なぜか2019年のカンヌ国際映画祭のレッドカーペットを、ギリシャの偉い人と歩くことになりました。映画制作者としてここを歩くことを目標に日本を飛び出したのに、映画を作ってないのに歩いている(笑)。人生において、明日何が起こるかわからないとつくづく感じた瞬間です。 僕の作品を見てくれた方が「ここでこんなことをしてみないか」と声をかけてくれて、それに応える。それを繰り返していくうちに、おかしなことがいっぱい起き、どんどん大きくなっていって。大げさかもしれませんが、魂を燃やして生きている人間が、自然と寄り集まってくるんだと思います。僕にとっては中村さんもそういう方です。

中村
特にコロナ禍でステイホームとなり、大きな企業やエージェント、画廊の動きが鈍くなっているときに、赤松さん自身がアートに命をかけて動き回った。それがすごいネットワークにつながったということですね。

今こそ人間力を磨け

赤松
人間が発しているエネルギーというか、人間力というか、そういったものが一番大事だと思います。今、一時帰国して東京の街を歩いていると、行き交う人たちの人間力のなさに驚きます。情熱が全く感じられない。まるで砂漠に見えます。僕にはとても耐えられません。

中村
日本人の本来持っているエネルギーが枯れてしまっていますよね。与えられた課題で高得点を取るのはうまいのかもしれませんが、何かが足りない。情熱と行動力を持ってチャレンジする意気込みが感じられません。それなら何をしなくてはいけないのか。赤松さんと話していると今の日本の閉塞感に対して打破する答えを持っているように感じます。エネルギッシュで、破天荒で、たった一つのきっかけでエネルギーをものすごく拡散させて、グローバルの中で突き抜けてしまう。その瞬間を、まさに横で見させていただいて感銘を受けました。

まずは自分自身で歩き、 その先に夢を求める

中村
赤松さんのように、エネルギッシュに活躍したいと感じている日本の若い人たちも多いと思います。なにかアドバイスをいただけますか。

赤松
何もせず、歩き出す前から夢を持つ人が多い気がします。夢を持つのは歩みを進めて自分で歩いているという自覚を持ってからです。何かに向かう先に初めて夢が現れるのだと思います。そして歩き始めたら、けっしてあきらめないことです。

中村
やりたいことが見つかったときや知らない世界へ飛び込むときは、そのときの自分のすべてをなげうって挑戦する覚悟が必要ですね。そして今こそ人と人とのつながりが大事な時代です。ご自身のネットワークづくりで心がけていらっしゃることはありますか。

赤松
ネットワーク、つまり友達同士をつなげるには、心を許せる人間、信用・信頼を得られる人間であることが必要です。それでいて、お互いに人間として共有できる何かがあれば、ネットワークは自ずと構築されていきます。

中村
僕が今までお会いした人の中でも、飛びぬけて面白くスケールの大きい赤松さんの生きざまはわれわれに勇気を与えてくれます。アートもサイエンスも、そしてビジネスも基本は同じなのではないでしょうか。いかにオリジナリティーを出すか。そして粘り強く自分の味を出しつつ、最先端の情報と自分の持つ感性でプロジェクトを組み立てていけるか。また、周囲の人を巻き込み、協力してもらえる人としての魅力・人間力が必要であることを再認識しました。ぜひこれからもご活躍いただき、若い人たちへエネルギーを分けてあげてください。本日はありがとうございました。



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