2021年8 月現在、国内承認されている新型コロナウイルスに対するワクチンは海外製品しかありません。日本はこの分野で出遅れました。今号は太平洋戦争中、日本軍が日本製ペニ シリンの合成や実用化にも成功していたことを紹介します。欧米からの情報が遮断、資料も資金も資材も枯渇した中、たった1年で成し遂げた偉業です。戦後、米英についでペニシリンの大量生産に成功したのは戦争に負けた日本でした。日本製医薬品創成に向け、このことを振り返るのも意義があることかと思います。キーポイントは…伊号潜水艦、稲垣克彦軍医 です。時系列でその出来事を列挙します。

1943 年8月7日、ドイツの医学雑誌にペニシリンに関する論文が掲載されました。著者はベルリン大学薬理学教室のキーゼ博士です。論文のタイトルは、“CHEMOTHERAPIE MITANTIBAKTERIELLEN STOFFEN AUSNIEDEREN PILZEN UND BAKTERIEN”「青カビから作られた“ ペニシリン”という物質がさまざまな感染症を劇的に治す」ことが紹介されています。

1943 年12月21日、日本からドイツに赴いた伊号第八潜水艦がベルリンから持ってきたさまざまな資料の中にあったこの論文を東京在住だった33 歳の陸軍軍医稲垣克彦先生が読んだことから日本でのペニシリン研究が始まります。ペニシリンに関して日本に最初にもたらされた情報でした。この論文を読み、その重要性に気づいた稲垣は同僚と共に翻訳し、各方面に送りました。太平洋戦争当時、日独 往復を企図した潜水艦は5隻、日本に帰り着いたのは この潜水艦だけです。

1944 年1月27日英国首相チャーチルの肺炎が「ペニシリンという新薬で治癒した」ことが報道されました。 この報をうけ、陸軍軍医学校に「直ちにペニシリン研究を始めて同年8月までに研究を完成させよ」という命令が下りました。

※この報道は誤報で、実際にはサルファ剤が投与されていた

第1回ペニシリン委員会が1944 年2月1日に開催されました。委員長は軍医学校長三木良英中将。総務を務めた稲垣軍医が実際の指揮を執ったのです。まず、日本全国から青カビ収集が開始されました。

同年3月23日、東京帝大農学部発酵化学研究助手の棟方博久が「ペニシリンを作る青カビ」を日本で初めて発見。以後、さまざまな青カビが試されます。

同年9月1日、第5 回ペニシリン委員会が開かれ、有望株に絞って集中的に物資や人材を集めて研究することになりました。

なお、ペニシリン委員会と関係なく、東北大学医学部細菌学研究室はペニシリンを製造し患者さん4人に投与しています。効果は劇的であり、 1944 年9月17日に発表されています。日本最初のペニシリン臨床使用例ですが、使われた青カビはペニシリンを作る能力が低く、大量生産には使われませんでした。

稲垣は研究とは別にペニシリンを大量生産する方法を模索していました。多くの製薬会社がペニシリンの大量生産に名乗りを上げていましたが最初に選ばれたのは「森永製菓」でした。

稲垣が収集した文献の中にエジプトの雑誌「パレード」がありました。
この雑誌の中にペニシリン工場の写真が掲載され、それには大きな牛乳瓶のようなものが写っていました。それが稲垣にはミルクプラントのように見え、ペニシリン大量生産にはミルクプラントが利用できるのではないかと考えたのです。

稲垣がパレード誌を読んだ1944 年11月17日、その翌日にはミルクプラント を持っていた「森永製菓」に連絡をとり、翌々日の11月19日に「パレード誌」を持って静岡県三島にある「森永製菓」の工場に赴いています。11月21日に森永製菓の食品工場でペニシリン大量生産を試みることが決まりました。

稲垣のフットワークの良さというか、着眼点は 面白いです。雑誌の写真を見て、それが本当にペニシリンプラントかどうか分らないのに、「何となくミルクプラントに似ているから森永製菓に頼もう」と普通の人は思いつかないと思います。

森永製菓も偉かったです。稲垣の話を聞き、直ちにペニシリン合成のための工場設備を作り上げます。わずか20 坪の小さな工場でした。森永製菓が持っていたさまざまな技術を活かして、ペニシリン生産のための設備を数日で作り上げ、ペニシリン生産が始まります。物資が乏しい時代です。指導したのは、後にカナマイシンやブレオマイシンの 発見で世界的に有名になる梅澤濱夫医師です。

この工場で早くも1944 年12月にペニシリン製造に成功します。ペニシリンの製品名は「碧素」と名付けられました。萬有製薬もペニシリン製造に成功します。

1944 年12月23日、第7回ペニシリン委員会が開かれ、森永製菓と萬有製薬が作ったペニシリンが披露されました。第1回ペニシリン委員会が発足してから、わずか10ヵ月で、ペニシリンの商業生産ができるようになったのです。

ペニシリンは実際に患者さんに投与され劇的な効果を挙げています。両社と もに生産量を上げ、1945 年8月にその生産のピークを迎えていました。

戦後、稲垣先生は内科医として活躍します。ペニシリンに関しては1946 年に自らの名前を伏せて「ペニシリン」と題した本を出版しています。2004 年、92歳でその生涯を終えました。今はほとんど知る人もいないのですが、偉大な生涯でした。新薬開発には、稲垣 医師のような優秀なオーガナイザーが必要だと思います。


【参考文献】
1.角田房子 著(1978)『碧素・日本ペニシリン物語』新潮社 これはすごい本です。徹底的に調べて日本でのペニシリン開発経緯を明らかにしています。なぜか絶版となっています。ぜひ、再版してほしいですね。
2. 水沢 光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基に」科学史研究, 266(52), 70 - 80, 2013

【写真提供】
公益財団法人 日本感染症医薬品協会 / 内藤記念くすり博物館



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